相対的絶対音感「当教室が相対音感に拘る理由」
(絶対音感の必要性??)


☆絶対音感について☆   ☆絶対音感の必要性☆   ☆聴こえない絶対音感☆   ☆計算式に聴こえる耳☆   ☆音楽の質と心☆   


絶対音感の欠点その(3)


絶対音感の欠点その(3)

最相葉月さんの「絶対音感」という本を読んだ。
ベストセラーになった当時は、この本にはまったく興味がなかった。
絶対音感に対する事はある程度知っていたし、
指導法も身に付けていたからだ。
今改めて読んでみて。
面白い。。
というか、もっと早く読めば良かった。
私が、自分の「演奏法」で絶対音感という壁にぶつかった時にもし読んでいたら、
あっという間に解決されたかも知れない。

本によれば、絶対音感保持者がその「壁」にぶつかった時、
たいていの人が自分の持っている「絶対音感」を
「捨てなければならない」とある。

※(すべての人が「捨てる」という言葉を使ったかどうかは分かりません)
 (また、絶対音感保持者で、その音感が「苦」と感じた事の無い人は、はじめからある程度柔軟な音感=いろいろな音程でもその音を受け入れられる音感をも持ち合わせていた人と考えられる)

私も「捨てなくては」と感じた一人だった。でも、その混乱と複雑な心境は相当なもの。
自分の中にある記憶の一部を消さなくてはいけないのと同じようなものだからだ。
例えば「1+1=2」という計算式を忘れろ、というのと同じようなもの。
実際には無理な話なのだ。

しかし、その壁から脱出出来た時の開放感と言ったらない。
これほど音楽の世界は素晴らしく広いものだったのかと、
自分の聴感覚を疑うほど。
この感覚をもっと早く知っていて、
もっと早く音に結び付けられていたら‥‥‥。
あの時の壁にぶち当たった時の辛さも、
あっという間に消え去っていたかも知れない。。。



過去に「与えられた」音感

まずは私の過去の話から。。。
母のお腹の中にいる時から、さんざんいろんな音を聴かされていたようで、
産まれてからは絶対音感教室専門の音感教育を受けて来た。
夜、寝る時には毎晩クラシックのレコードを聴かされていたし、
おかげでその頃鳴っていた曲が流れると、
すぐにその曲をピアノで弾けてしまうし、
何調の曲で最初の音は何の音で、などなど、簡単に分かってしまう。

しかし、私の場合はそれらが「自然」と身に付いたものではなく、
ある一定期間(幼児期から6歳頃まで)に特別な「訓練」を受けて
身に付いたものである。自分が自ら「絶対音感が欲しい」と
望んだ訳ではないのだ。
私の絶対音感は、「与えられた音感」なのである。

小さい頃はそれが「弊害」になる事など、1度もなかった。
まして小さい頃から作詞作曲をして遊んでいた私には、
むしろ絶対音感があった方がやりやすかった。
音楽が理論的に理解出来てしまう(実際には音楽理論についてはまったく知らないのに、耳だけで分かってしまう)ので、
例えばこのメロディーに相応しい和音伴奏がすぐに分かるし、
逆に相応しくない音は不完全に聴こえるので、絶対に使わない。
頭の中でその「音」が何の音か分かるので、
作曲していても「このソロの部分はギターの音で」とか「ドラムはこんな感じ」とか、
頭の中でバンド演奏まで出来てしまう。
覚えたオーケストラの曲も頭の中で「再演」する事が出来る。
出だしはバイオリンで、続いてチェロの音、クラリネットの音、などなど。

一見すると、やっぱり「絶対音感持ってる人って すごいんだ」と
想われてしまいそうだが。。。



最初の弊害

最初の弊害は、一度ピアノをやめて
大人になってから再開したピアノレッスンの中で起きた。
その頃師事していた先生には、とにかく「音色」を求められていた。

『きれいな音で!その音は汚い音!』
『今の音とさっきの音とは違うでしょ!』

今の音とさっきの音?同じ「ド」の音じゃないの、何が違うの。

絶対音感は、「絶対的に聴こえる」もの。
「ド」の音は「ド」以外の何者でもないのだ。
なのに、先生はさっきの「ド」と今の「ド」は違う、と言う。
私には理解出来なかった。



ただ「並べられただけ」の音楽

もう1つ。
その頃の私の演奏は、非常に冷たくて固くて機械的な演奏だった。
絶対音感はすべての音が「ドレミ」に聴こえてしまうので、
ぶっちゃけ、その「音」が「きれいな音だろうが汚かろうが、
とりあえず鳴っている事に満足してしまう」のだ。
音に気持ちが入ってなかったり、ぶつけたような音になってしまっても、
ハッキリ言って関係ない。
その「音」が「何の音」か分かれば、それで解決してしまう。
一通り楽譜と同じ「音」で「並べられていれば」
それが私にとっての「1曲の仕上げ(完成)」だと想っていた。

音の高さの違いや♯♭の音などはすぐに分かるのに、
微妙な音の長さの違いや微妙な強弱、
また音の色合いの違いなどはまったく分からなかった。
聴こえて来る音楽はすべて「ドレミ」という言葉で聴こえて来るから。
そこに音の「色調」とか「くすみ」とか「色彩」なんてものは存在しなかったのだ。

でも、楽譜通りに演奏された曲が、果たして素晴らしい芸術であると言えるだろうか?
だったら、例えば楽譜通りに記された音符を、何か音響の機材に打ち込んでいって、
そのまま「音を流す」事が出来れば、それは「完成」と言えるという事になってしまう。
果たしてそうだろうか?

音楽をやっている人に限らず、例えば絵を描く人、歌を歌う人も同じではないかと想うのは、
何か自分が言いたい(伝えたい)事があって、
それを「音楽」や「絵」を使って「表現」したくなるのだと想う。
人によって伝える手段は異なるものの、
やはりそれを「表現」したい、つまり、
「誰かに聴いてもらいたい」と願っているのではないだろうか。

ならば、機械的に流れてきた「音楽」から、
何か気持ちが伝わって来るかと言えば、おそらく来ないであろう。
人間的な感情や愛情、複雑な心理など「打ち込まれた音」にはないであろうから。



音楽とは??

絶対音感を持っている私が、とりあえず「音」を並べて弾いた「音楽」に満足してしまうのは、
難しい計算式の答えを出した時と同じような感覚だった。
とりあえずこの拍子にこの音(数字)を入れて、並べて、
最後に楽譜通りに弾くという「答え」を出す。
出した時は、当然スッキリしている。
このスッキリ感に私はいつも満足してしまっていた。

絶対音感は、そのほとんどを『左脳で聴いている』

これを最相葉月さんの本で読んだ時には、正直ショックだった。

本によれば、毎回毎回左脳で聴いているとは限らないという。
例えば「知っている曲」を聴いている時は左脳で、
「知らない曲」を聴いている時は「右脳」で聴いている事が多いと言うのだ。
まさに私はこの通りである。
知っている曲はとても聴きやすいし、分りやすい。
その曲の調性も分かるし、次に出て来るだろう音も分かる。
でも、知らない曲の時には、なんだか気持ちが「ふわぁ〜」っとするような、
浮いてしまうような感覚があるのを覚えている。
これが「右脳」の働きだったと考えると、すごく納得が行く。

しかし、ショックだったと言うのは、
音楽的感覚や感性は絶対に「右脳」だと想っていたので、
私自身、絶対音感がある事イコール、右脳が発達していると思い込んでいたからだ。
大きな大きな勘違いである。。
絶対音感は科学的にはまだ解明されていない事ばかりだと想うが。



多種類な絶対音感

でも、これらはあくまでも私だけの場合。
絶対音感保持者の中には、音がドレミで聴こえて来るだけではなく、
色や色と色の混ざりあいのように聴こえて来る人もいるという。
絶対音感は1種類じゃないと感じてはいたけれど、
とにかくこの本にはたくさんの人の経験談が多く載っていて、
これほどまでに聴こえる人によって変わるのかと驚く事ばかりだった。

絶対音感の持ち主であろう人の演奏は、だいたい聴けば分かっていたつもりだった。
1つ1つの音の粒が非常に「ハッキリ」と聴こえる人。音の強弱くらいしか音色の変化が見られない人など。。
私の過去の演奏などを聴くとそれがよくよく分かる。
ひと粒ひと粒の音が独立した1つの「音」なので、
その音が1つ1つまさに「独立して」聴こえるのだ。
縦に並んでいるという言い方もあるかも知れない。
粒がハッキリしていて、全体的に聴こえがいい。
聴いていても弾いていてもその方がスッキリ聴こえる。
速いパッセージも非常に粒が揃ってきれいに聴こえる。
でも、そこには「心」とか「暖かさ」とか「色合い」などはまったく聴こえて来ない。
まるで先ほども書いたような、機会が音を「流してる」だけの演奏なのだ。

あの故園田高弘さんが絶対音感があったとは、これには全く気がつかなかった。
数年前に園田さんのリサイタルを生で実際に聴いているのに、気付かなかった。
園田さんは、音がドレミで聴こえて来るだけではなく、
そこにいろいろな「色彩」が見えた、と言う。
園田さんは、音楽を「色」として捉え、そこに様々な色合いを重ね、混ざらせる事によって、
音楽を奏でていたのだと想う。
だから、ひと粒ひと粒が鮮明に聴こえる事もなかったし(色が混ざっているので独立していない)
演奏の流れも「縦」に聴こえる事はなく、横の流れに添った「時間芸術」に聴こえたのかも知れない。



音楽は計算式??

私と園田さんの「音感」の違いはこういう所にもあると想う。
ここでいう「違い」とはピアノ技術云々ではなく、
「耳」から聴こえて来る「聴感覚」の違いである事を改めて書いておきたい。。(^^;
私自身は、音楽が「ドレミ」という言葉でしか聴こえなかった。
なかった、というのは、今は「絶対音感の壁」を越えられたので、
世の中の全ての音が「ドレミ」に変換される事はなくなったという事であるが。。
でも、過去、それで本当の意味で心から「音楽」を楽しめていたのか?と聴かれると、
実際にはそうでもなかった気がする。

例えばピアノ発表会で子供たちがたくさんピアノやヴァイオリンを弾いたとして、
知っている曲が流れて来た時には「左脳」で聴いていたとする。
ピアノ曲で、誰かが1つ音をミスしたとしたら、私はその「間違い」にすぐ気が付く。
つまり、楽譜通りに弾くという答えが出るまでの「計算式」が合わなくなるのだ。
はたまた、小さい子がはじめたばかりのヴァイオリンでも弾いていたものならもう大変である。
私の頭の中はとたんに周波数、ピッチのグラフが出来上がる。
音が少しでも狂おうものなら、もう気持ち悪くて仕方がない。
ヴァイオリンは、例えばオーケストラやピアノなどと共演する時には、
例えばソロの時にはピッチを少し高く上げたり、
ピアノがメインならピアノよりもピッチを低く調弦したりと、
その時々その音によってピッチを変えて演奏する楽器である。
ピアノで絶対音感を付けた私は、ピッチが例えば『「ド」という引き出し』を、ある意味「記憶」しているので、
ドの引き出しと微妙に違う引き出しが出て来たら、それは「ドの引き出しじゃない!」と
頭の中が狂い出してしまう。
そんな時には、もう聴いていられなくなり、その場を離れるしか方法がない。
つまり、私なりの計算式で演奏されたものは「すごく上手」
それ以外は「上手な演奏じゃない」という、この2種類でしかなくなってしまうのだ。
それで本当に音楽が楽しめるのだろうか??

キーシンのピアノコンサートを聴きに出掛けた時である。
いつもすべての音が「ドレミ」に聴こえてしまう私は、
「今日はドレミじゃなくて、音楽として聴いてみよう!」と私なりに固い決意をしてみた(笑)
はじめのうちは音楽として聴けていたのだが、だんだん出来なくなり、
気が付けば「左脳」が「ドレミ」に「変換」するという作業を繰り返し行っていた。
私にはこれは出来ないものなのだろうか?



壁が崩れるまで♪

その時には諦めざるを得ないのではないかと考えた程だった。
そんな私が絶対音感の「壁」をうち破る事が出来たのは、本当にごくごく最近なのである。
きっかけは1つではなく、いくつにも重なったあらゆる異なった事柄が、
さまざまな方向から私の知識の中に入り込んで、
それらが最後に1つの「線」となり、見事に結び付けられた時だった。

まずは江口寿子先生の「絶対音感プログラム」で、子供達に絶対音感レッスンをしようと想いはじめ、
江口先生の「音はロケットみたいに飛んでくる」を読んで、音楽に必要なものは絶対音感だけではないという事を知ってから。
以前の私のピアノの師匠に、音楽の「縦ではない横の流れ」を教えていただき、
1音1音の微妙な「音色の違い」を教えていただき、
その違いを分かる為には何をやったらいいと研究をはじめ、
いわゆる相対音感の訓練や移動ドの練習、ソルフェージュの訓練、
いろいろなピアニストの同じ曲の聴き比べ、
古楽器(現在のピアノに調律されている平均率で調整されていない楽器、チェンバロやハープシコードなど)を聴く機会を作ったり、
(※絶対音感はだいたいこの「平均率」で固定された「固定ド」で訓練する為、
ピッチ(音程)がピアノと違うチェンバロなどは気持ち悪く聴こえてしまう)
数多くの演奏家のコンサートへ足を運び、自分の「耳」で「聴く」(脳で聴くのではない)事への習慣、
さらに現在の師匠であるルイ先生から、音楽を「頭」で感じるのではなく「心」で感じる事の大切さを教えていただき、
心で歌う事の必要性、楽譜の音を「並べる」のではなく、「意識」する事の必要性を教えていただき、
そして音楽という時間的空間の感覚を掴んで。。。
やっと壁が崩れた感じである。



与えられた音感は親からの「愛情」

壁にぶつかった時には、本当に「絶対音感なんていらない!」と
自分の耳を捨てたくなったけれど、
欠点ばかりがある音感ではない。
最相葉月さんの本で、その事を改めて実感します。
それと同時に、絶対音感がつかなかった人の辛さも身にしみました。

そして、この「親から与えられた音感」を、時には「必要ない」と
捨ててしまいたくなったその葛藤から、逃れられた気がします。
誰の為でもない、私の為に絶対音感をつけて「くれた」のだと、
想えるようになりました。
これが親の愛情だったのかと

今、改めて、「絶対音感をつけてくれて、ありがとう」と
ようやく言える気がします。


でも、もしも「絶対音感は音楽をやる上で必要なものですか」と聴かれたら。
私はこう答えます。

絶対音感は、音楽をやる上で絶対に必要な音感ではありません。



音楽を「心」で感じたい♪

ある絶対音感保持者である音楽家が、それまで聴こえて来るすべての音が「ドレミ」に聴こえていた事に苦痛を感じ、
一時音楽から離れてしまいます。
ところが、ふとある時から、それまでのような「ドレミ」で聴く事をやめて、柔軟な耳で音楽を聴くようになり、
はじめて、あるプロの演奏を聴き、感動し、涙を流したという話があります。

その絶対音感保持者は、きっと、音楽を、「ドレミ」ではなく、「心」で感じる事が、
出来たのだと想います。


私が去年、綾戸智絵さんのライブを聴いて、生まれてはじめて、
感動し、涙を流したあの時。
私も、音名ではなく、「心」で 感じる事が出来た時だったのかも知れません。
(その時の日記記事はこちら

音楽を心から楽しむ為に。
音楽を、「心」で感じる為に。


















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